「妊娠と放射線」フォ−ラム(2003.2.14) 要旨集の原稿

なぜ妊娠可能な女性と胎児の放射線防護を考える

自治医科大学RIセンタ− 菊地 透

1.はじめに
 多くの人々は、放射線を被ばくすることに関して、漠然とした不安を感じ危険を意識する。そうした人々に、診療に伴う少量の放射線被ばくを安心して受けてもらうためには、科学的で説得力のある説明が必要である。医療被ばくは、人工放射線源による被ばくの大半を占めてきた。医療被ばくを引き下げるため、さまざまな技術が開発されてきたにもかかわらず、医療水準の向上と共に、医療被ばく線量はますます増加している。とくに、我が国は、先進工業国の中でも、国民一人当たりの医療被ばくが多い国であると言われている。
医療被ばくは、患者さんが放射線診断や放射線治療で受ける放射線の被ばくである。今日の医療には、さまざまな形での放射線利用が不可欠なものとなっている。そうした放射線診療は、放射線にさらされる患者さんに大きな不安を与える場合もある。とくに、妊娠中であったり妊娠の可能性がある女性は、自分自身への被ばくに対する不安よりも、胎児とその将来に対する不安の方が大きく、妊娠中絶の選択にいたる場合もある。
今回のフォーラムでは、放射線診療に伴う妊娠可能な女性と胎児の放射線防護について、医療領域の放射線防護の立場から議論する。また、このフォーラムの副題に示したように、通常の放射線診断で受ける被ばくを理由に、妊娠を中絶しないための提言を検討する。

2. 医療分野における女性の放射線防護
2−1 女性従事者の防護
 放射線防護は、放射線から人の健康を守ることであり、健全な社会活動の維持促進を図ることである。医療分野においては、有益な放射線診療を不当に制限することなく、医療従事者、公衆、そして患者さんに対する放射線安全を推進することである。この放射線安全管理の徹底を図るために、放射線安全管理関係法令が規制されており、放射線診療従事者や公衆の被ばくに対しては、線量限度を定めている。
 放射線診療従事者の線量限度は、1年間で50mSv(注)を超えずかつ5年間で100mSvである。これに対して、妊娠可能な女性や妊娠中の従事者に対しては、特別な限度を設けている。特別な線量限度は、妊娠可能な女性に対して5mSv/3月間、妊娠中の場合は出産までの期間に腹部表面で2mSv、内部被ばくの胎児の実効線量は1mSvと規制されている。この特別な線量限度は、放射線診療従事者であっても、胎児は母親と個別に取り扱うことで、一般公衆と同等な線量限度を適用する考えを基にしている。なお、妊娠可能でない女性従事者は、男性従事者と同じ線量限度であり、性差のない被ばく管理体制で行われる。
2−2 医療被ばくの女性の防護
 医療被ばくは、患者さんに臨床上の必要な被ばくであり、従事者や公衆に対する線量限度は適用しない。その理由は医療被ばくを制限することで、患者さんの有益な放射線診療を損なうおそれがあるためである。したがって、医療被ばくの防護は放射線診療の臨床適用の判断と、不必要な医療被ばくの低減によって実施される。 また、放射線診断では医療被ばくの低減よりも、有益な患者さんの診断情報を増大することが重要である。
なお、通常の放射線診断では、テ−マ副題の100mGy(注)以下の胎児被ばくである。放射線診断は、意図的に患者さんの診断部位に放射線を被ばくするため、妊娠中の女性の腹部や胎盤付近などの診断では、確かに胎児が被ばくする。そのため、医療被ばくにおける妊娠可能な女性と胎児に対する特別な防護が重要である。
(注:mGyとmSvは放射線の単位で、X線の被ばくではmGy=mSvとして取り扱う。日常生活の自然放射線源から1年間で1-10mSvの被ばくを受けており、世界の平均は1年間で2.4mSvである。)

3. 女性に対する放射線防護の変遷
放射線防護は、被ばく線量からの放射線影響を推定して実施されることが重要である。女性に対して特別な放射線防護を考えた理由には、卵巣の被ばくがもたらすかも知れない遺伝的な影響と、妊娠中の胚や胎児に対する影響の二つの懸念があった。それぞれの防護の考え方は、放射線の影響に関する知識の蓄積とともに変化しており、国際放射線防護委員会(ICRP)勧告も変遷してきた。
3−1 遺伝的影響に関する女性の放射線防護の考え方
1960年代までは、妊娠可能な女性に対する放射線防護のうち、遺伝的影響の防護が重視され、生殖可能期間に受ける生殖腺線量を重要な指標としていた。そのため、ICRPのPubl.1(1958)では、遺伝的影響と生殖腺線量の直線的でしきい値のない関係が仮定され、生殖腺の防護に注意して放射線診療をするよう勧告している。また、この時代には、放射線被ばくによる産児能力の低下も懸念されていた。
 しかし、1970年代以降になると、人の遺伝的影響が低線量の被ばくでは起こり難いことが分かってきた。そのため、放射線防護の中心課題はがんの誘発に移行し、「決定臓器」の考え方が廃止されるとともに、生殖腺線量が特別に重視されることもなくなった。
3−2 胚や胎児に対する防護の考え方
受胎後の被ばくで胚発生と器官形成期は放射線感受性がとくに高い時期であり、妊娠最初の2ヶ月間に放射線診断を行う場合、妊娠の可能性に着目していた。そのため、ICRPは、生殖腺の被ばく防護に加えて、さらに Publ.6(1962)において胎児の被ばくを確実に防止するには、妊娠していない期間内に行うことを提唱した。とくに、患者さんの病状に関連して重要でない検査は、その女性が妊娠している可能性がない期間に実施すべきだ、と言ういわゆる「10日間ル−ル」を勧告した。
しかし、ICRPは1982年のPubl.34で、妊娠可能な女性の下腹部に対する放射線検査を月経開始後10日間に制限しなくても、患者自身から得られる情報で胎児に対する防護は可能であるとして、「10日間ルール」を事実上撤廃した。

4. 最近の話題から胎児の防護を考える
4-1 「放射線と健康」の本
 「放射線と健康」舘野之男 著(岩波新書、2001年)は、妊娠と放射線の社会的なインパクトを与えた。舘野氏は以前に出版された、「放射線と人間*医学の立場から*」(岩波新書、1974年)の改訂版のつもりが全面的に書き直した要因に、妊娠可能な女性の防護に関する大きな変化と著者自身の反省も紹介している。このことは、本著に『旧著の内容に係わる点で、特に私が気にしていたことを、一つだけ記しておきたい。「X線検査で奇形児が生まれる」という常識に関してである。私が放射線医学の勉強をはじめた頃(1960年代はじめ)は、(中略)「10日規則を守ろう」というキャンペーンが大々的に行われた。「10日規則」はしかし、70年代を通じて徐々にゆるめられ、1980年代半ばには事実上取り消された。(中略)だが、「奇形児が生まれる」という類の話は社会を過剰なほどに刺激する。「X線検査で奇形児が生まれる」という常識が社会に定着し、「妊娠に気がつかないでX線検査を受けてしまった」ことをめぐって、残念なことが多数起きた。』(まえがきの一部から引用)と記載されている。
 この残念なことに関して放射線診療や放射線防護に係わる者は、妊娠中絶に対して見えない殺しの共犯者として身につまされる思いがある。また、この経験と教訓をもって、改善すべきことを積極的に推進し、放射線診断を受けた患者さんが、放射線を理由にした妊娠中絶を何とかして止めさせなくてはいけないと再認識する本である。
4-2 ICRPの「妊娠と医療放射線」の勧告
1999年にICRP から「Pregnancy and Medical Radiation」ドラフトが公表され、Publ.84(2000)が勧告された。そして、「妊娠と放射線」(日本アイソト−プ協会、2002年)と題した翻訳本が発行され、多くの医療関係者に新たな関心を与えた。この勧告要旨に、毎年数千人の妊娠している患者さんや、放射線従事者が被ばくしている。しかし、知識の不足ため大きな不安とおそらくは、不必要な妊娠中絶が生じている。妊娠中絶は、多くの要因が関係する個人的な決定である。しかし、放射線診断に伴う胎児被ばくの線量が100mGy未満の被ばくでは、放射線リスクを妊娠中絶の理由としてはならない。なお、妊娠している患者さんに対しては、胎児被ばくによって発生するからも知らない放射線影響について知るせる権利がある。また、放射線診断の専門家は、不必要な不安を与えないために、放射線の胎芽および胎児への影響について熟知しているべきなど、医療関係者が知っておくべき内容と、日常の医療現場で行うべき事項が提示されている。この本も是日、病院に1冊は置かれたい本である。
 今後は、この新しい勧告を基に、我が国における妊娠可能な女性および胎児の放射線防護として、個々の医療現場において具体的にどの様に検討し、周知させることが重要と考える。また、ICRPでは「Biological Effects after Prenatal Irradiation(Embryo and Fetus)」ドラフトを作成し、広く関係者からのコメントを募集中(2003年1月末まで)であり、さらに胎児の放射線影響に関する勧告が待たれる。
4-3 新聞報道と意見書
 妊娠可能な女性が妊娠に気付かずに放射線診断を受けた後に、妊娠していることを知り胎児への放射線影響を心配するケ−スは、少なからず遭遇する。この様な場合に、放射線関係者と社会の常識と対応は異なる。例えば、2000年8月21日に掲載された毎日新聞掲載記事を紹介する。
 記事は、特報・医療を問う:「妊娠に不用意X線検査*複数の病院確認を怠り余儀なく中絶も」の見出しで、妊娠の可能性のある女性にX線CTなどの検査をしたため、中絶を余儀なくされたケースの報道である。ケ−ス1の女性(34)は、不妊治療を行っている患者さんで、腹痛がひどいため腹部のCTが行われたが、その後、妊娠していることが分かった。女性の相談に対して、医師から「胎児に影響がある」と中絶を勧められ、泣く泣く中絶手術を受けた。ケ−ス2の女性(43)は、子宮筋しゅの手術の際に、胸部と腹部のX線撮影を行った。なお、撮影4,5日前の尿検査では妊娠が確認できなかったが、実際には妊娠していたため、その後、中絶せざるをえなかった。この二つのケ−スについて、安全なお産を目指す「陣痛促進剤による被害を考える会」の代表者は、「最終月経との関係でX線照射をしていい時期かどうか、普通に注意すれば分かるケース。医師の単純なミスで、責任は重い」とコメントしている。
 この報道記事に関して、本協議会は毎日新聞社宛に、2000年9月8日付けで意見書を提出した。また、これに関連して、産婦人科医師に対する啓発として、「日母医報」(平成2000年12月1日発行)に、「妊婦の腹部CT」(大野和子ら)と題して掲載した。(詳細は、医療放射線防護誌、No.30,2001を参照)
 なお意見書は、読者(国民)に対して日常の放射線診断の被ばくでも、妊娠中絶が必要であるという誤解を与える報道である。また、紹介されたケ−スのように、普通のX線検査を実施しただけで、妊婦に中絶を勧める医師がいることも事実であり、当協議会は様々な機会をとらえて医師に対する認識の是正に努めている。しかし、それだけでは、妊婦や家族の「出生児の放射線障害」に対する不安を拭い去ることはできない。その意味で、今回の報道記事は、日常の放射線診断に伴う妊娠可能な女性と胎児の防護に関する活動の必要性を再認識するとともに、読者に「X線検査の被ばくで中絶する」という誤った固定観念を与える危険性をはらんでいる。この様な、放射線影響に関する誤った理解が、有効な放射線診療を受ける機会を妨げたり、放射線を理由に妊娠中絶を引き起こすことのないよう、マスメディアからも適切な情報が提供されるように要望した。

5. 女性と胎児の放射線防護とその提言
5-1 「10日間ル−ル」と胎児被ばく防護の見直し
 防護の観点から放射線診断に伴う胚および胎児の被ばくによって、出生児に放射線影響の確定的影響の防止と確率的影響の制限が重要である。最近の放射線影響の知見から確定的影響に関して、不妊は500mGy以下の生殖腺被ばくで起きない。胎児に対する「形態異常」や「精神発達遅滞」等は、胎児の週令によって多少異なるが、100mGy以下の胎児被ばくで起きない。また、胎児に対す影響は最後の月経後の4週間から始まり、その後の8週間である。そのため確実に妊娠していない月経開始後の10日間内に放射線診断の実施を制限しなくても、患者さんの情報から妊娠の可能性は得られる。さらに、ICRP Publ.73(1996)で通常の放射線診断において、受胎の最初から3週間における被ばくでは、確定的影響または確率的影響の心配はないと提言している。
 後者の確率的影響に関して、遺伝的影響は人の疫学調査では、放射線被ばくにより遺伝的影響が有意に増加することは確認されていない。なお、唯一不安が残るのは、胎児被ばくによる放射線誘発がんの発生確率のリスクに対する考え方である。がん発生に関しては、人の疫学調査では100mGy以下では有意に増加するとは確認されていない。また、1950年代後半の報告では、小児白血病が10mGy程度の放射線診断により、発生確率の増加を示すデ−タはあるが、その後の研究調査では確認されていない。
 なお、「10日間ル−ル」は妊娠可能な女性の放射線診断の実施できる期間を月経開始の10日以内に制限している。そのため、場合によっては適正な放射線診断の実施時期を逃す危険性もあり、有効な放射線診断の選択を狭める状況を強いている。「10日間ル−ル」は、単純すぎるほど画一的であり早々に見直すことで、さらに女性の有益な診断情報は確実に増大すると考える。
5-2 放射線と妊娠の不安
 放射線に関しては、漠然とした不安と危険性を抱くことが一般的である。さらに妊娠中に胎児が被ばくした患者さんは、その不安は深刻である。これらの不安や心配に関しての相談や情報交換は、最近のインタ−ネットの状況からも推察できる。例えば、YAHOO Japanの検索(2003,01,10)では、「放射線」は274件、「妊娠」は303件の検索数に対して、「放射線と妊娠」の二つの用語で検索すると、11、300件と脅威的な件数が検索される。また、「放射線、妊娠、不安」と3つの用語でも2、780件と圧倒的な件数が検索される。
 とくに、放射線と妊娠に関する患者さんからの質問や不安は、妊娠中と知らずに放射線診断を受け、その後胎児に対する放射線影響を心配する内容が最も多い。この様な不安に、放射線の専門家からの答えは、胎児への放射線影響は、胎児が100mGyを超える場合に起きるため心配される必要はないと説明している。しかし、これらの患者さんへの説明で共通することは、今後は妊娠する可能性がある場合に、胎児への放射線被ばくを避けるため、妊娠可能な女性は急を要しない腹部の放射線診断は、月経開始後10日以内に受けると良いと薦めている。通常の放射線診断では胎児の影響は無視できるレベルにも係わらず、絶対に妊娠していない時期の放射線診断を推奨しており、不安感の強い患者さんには納得しがたい医療不信も懸念される。
5-3 インフォ−ムド・コンセント
 放射線診断を含めてあらゆる医療行為は、患者さんの症状に応じて適正な臨床適用を検討し、その適用に際しては患者さんの自己決定権を尊重することが重要である。そのため、医師ら医療関係者は、期待される臨床的な利益と副作用等に関してのインフォ−ムド・コンセントが必要である。
 とくに、放射線診断の副作用等の説明に際して、造影剤等の副作用は臨床デ−タからのリスク説明で行われる。しかし、通常の放射線診断における医療被ばく量では、確定的影響はなく、確率的影響の発がんリスクは実効線量で10mSv以下である。そのため、放射線の副作用リスクの説明に際しても、確率的影響の説明は仮定・仮説ではなく、人の疫学的デ−タや臨床デ−タが有用である。また、これから放射線診断を受ける患者さんに、仮説と仮定のリスクを持って、実施するか否かの選択をするインフォ−ムド・コンセトには馴染まないと考える。
5-4 適正な放射線教育の啓発
妊娠可能な女性と胎児の防護を考える場合、我が国で適正な放射線教育が行われているかは疑問である。小・中学校の義務教育における教科書では、広島・長崎の原爆体験と原子力事故の問題に関連して、放射線・放射能は、あらゆる生物にとってその生存をおびやかす影響や、少量でも長期間にわたって被ばくすると危険な場合があると記載されている。また、ここでいう少量とはどの程度の被ばく量かは曖昧であり、量に関する記載がないのは残念である。
 そのため放射線診療に際して、患者さんの不要な放射線不安の解消に努めることは、放射線診療関係者の責務である。また、適正な放射線防護教育を医療現場の医師、放射線診療技師、看護師、助産師等の医療関係者自身に行う必要がある。医療関係者および放射線防護関係者は、常に患者さんや市民からの素朴な放射線への不安感を無視することはできない。この素朴な不安に答え続けることが、放射線診療をさらに有効にすると考える。
5-5 市民公開シンポジウムなどの啓発
 これまで、当連絡協議会は日本放射線技術学会とともに、「放射線診療における被ばくと対策*国民の不安に答えて*」と題する10回の市民公開シンポジウムを開催してきた。これらのシンポジウムの中でも、妊娠可能な女性の被ばくに関する問題は、重要なテ−マの一つとして繰り返し取り上げられてきた。2001年11月には、講演者全員が女性で構成される「放射線診療と看護」を新潟市で開催した(医療放射線防護誌、No.33,2002)。2002年10月には、「女性の放射線被ばくを考える」を松山市で開催し、今年の9月27日にも富山市で開催の予定である。
 当連絡協議会では、さらに、放射線診療を受けた患者などからの不安の訴えへの対応について、当連絡協議会の通信会員やその関係者への支援も行っている。医療関係者が適切な説明をしなければ、妊婦やその家族の放射線診療に対する不安は益々大きなものになる。

6. おわりに
 放射線診断に伴い胎児が被ばくを受けた場合、患者さんが必要以上に心配し、不安感があるにも拘わらず、医療関係者が必ずしも適切な対応を行っていないことは、長年にわたる患者さんからの相談を通じて痛感する。また、残念なことに患者さんも意図しない妊娠に対しては、放射線の被ばくを理由に妊娠中絶を選択する場合もある。
 古来、妊娠と出産は、女性にとって人生最大の喜びであると言われてきた。しかし、生まれてくる子供への期待が大きいだけに、妊娠期間中に妊婦が感じる不安も大きくなる。妊婦の健康保持のために必要な放射線診療が、放射線の影響に関する誤解や不適切な説明のために、いらざる不安で妊婦を苦しめたり、不幸にも妊娠中絶の選択を強いることのないようにすべきである。また、少なくても100mGy以下の胎児被ばくの放射線を理由に、妊娠中絶をしないために何をすべきについては医療関係者ばかりでなく、妊婦を取り巻くさまざまな人々の暖かい理解と協力が必要である。