月刊「新医療」2月号、No.338.2003. 発行所「エム・イ−振興協会」に掲載

明窓浄几  連載第2回

放射線を巡る一種の情報隠し 女性を苦悩させる犯人は「空気」

放射線医学総合研究所名誉研究員  舘野之男

妊娠と放射線
 「妊娠と放射線」というフォーラムが、本年2月14日、丸1日をかけて行われる。場所は東京都千代田区の一ツ僑記念講堂で、主催は医療放射線防護連絡協議会。
 注目すべきは少々長いそのサブタイトルである。「放射線診療に伴う妊娠可能な女性に対する防護を患者さん中心に考える―100mGy以下の胎児被曝を理由に妊娠中絶を行わないために」とあり、今回はここからいくつか論点を拾って考えてみる。

100mGy以下とは
 論点の1つは、妊娠中にX線検査を受けたことを理由に中絶をする人がかなり多く、そしてその背景には、妊娠中にX線検査を受けると奇形児が生まれるという「常識」がある、という問題である。
 この「常識」は強固である。妊娠中に放射線を浴びると奇形児が生まれるという常識(似たような言い回しで混乱するだろうが、「X線検査を受ける」と「放射線を浴びる」を入れ替えてある。また前者には「」をつけて区別してある)と結びついて、原爆被爆=核戦争=人がたくさん殺される、奇形児が生まれるという連想が強く働くだけでなく「X線も放射線だ」「胎児は大人より放射線に弱い」という、どちらも科学的に正しい知識に裏打ちされているからである。
 これは、しかし、量の話を棚上げにして放射線という言葉だけを頼りに推論すると、誤った結論に至る。右に挙げた「X線検査を受ける」と「放射線を浴びる」の入れ替えもその例の1つで、奇形児が生まれるという結論は、ある線量以上の放射線には当てはまっても、一般のX線検査には当てはまらない。違いは「X線だから」「放射線だから」というのではない、100mGy以下だからなのである。

「常識」の強化システム
 それにもかかわらず、病院へ行けばこの「常識」を確認し、かつ強化するようなやりとりが日常的に行われている。例えばX線検査をした方がよかろうという話になったとき、「妊娠していませんか」と聞かれる。あるいはX線検 査室の入り口あたりに、「妊娠している人は申し出てください」などと張り紙がしてあることもある。
さらに進んでは、月経がいつあったかまで尋ねられる。「10日規則」を守ろうとしての質問である。つまり細胞分裂の一番盛んな妊娠直後は、放射線感受性も一番高いと思われるのに、妊娠しているかどうかは本人に聞いても分からない。排卵が起こって受精するのは月経開始後10日以後だから、絶対に妊娠していない時期、っまり、月経の始まりから10日間だけに検査を限ろうとするからである。

自分の身体のことは白分で決める
 この「常識」はまた「自分の身体のことは自分で決める」多数の女性の判断を誤らせ、また、いわれのない苦悩を与えている。
 ある若い女性は、次のようなメールを寄せてきている。
 「インターネットでいろんなサイトを見ると結構レントゲンの相談は多いですね。苦悩の末、その方たちはどうやってレントゲンに関する恐怖を乗り越え、出産に踏み切られたのでしょうか…。結局出産を決心されたかは分かりませんが…」。
 「今、私は中絶する勇気もなく、しかしあと9ヵ月間妊娠している自信もありません。不安の中でお腹の中では1日1日命が成長していき、私の体にも変化が出てきています(胸が張り、気分がすぐれません)。お腹の子は、私がどんなに毎日泣いてもわめいても動じないのをみると、どうしても生まれたい!と訴えているかにも思えます」。
 「周りが心から喜んでいない姿、実家に帰っても妊娠について触れず、私の体に心配すらしない空気…。私は、耐えられません。レントゲンを撮ってしまった自分を恨んでしまいます」。

放射線による奇形はある線量以下では起きない
 「10日規則」は、1960年代はじめに盛んに言われたものであるが、70年代を通じて徐々に緩められ、80年代半ばには事実上取り消された。奇形が発生する線量が明らかになり、それに比べ、X線検査の線量はそれほど多くないことが分かってきたからである。
 奇形が発生する最小線量については、86年の国連科学委員会(注1)報告書に次の数字がある。受胎後1日影響なし、14〜18日250mGy、28日250mGy、50日500mGy、50日以後出生まで500mGy以上。
 国際放射線防護委員会(注2)もまた、放射線障害が発生するしきい値として、90年勧告は、次の数字を採用している。胎児被曝の場合、奇形で100mGy、精神遅滞で100〜200mGy。これは先に紹介した国連の数字の2.5分の1に当たる。それだけ安全を見込んだのであろう(しきい値というのは、障害の種類によって違うが、それ以下の線量ではその障害は起きない値である)。
 このフォーラムのサブタイトルにある100mGy以下という数字はここからきたものである。ともあれ生物の体には精妙な仕組みがあることが分かってきて、昔考えたほど少ない線量で奇形にはならないのである。
 これに対して、X線検査の際に胎児が浴びる線量はどうか。妊娠中絶の理由にされることの多い胃のバリウム検査は、0.1から2.3mGy、平均1.5mGyである。これで奇形になるとはとても思えない。胃以外でも、大抵のX線検査は高々10mGy程度、「奇形が発生する最小線量」より大分、少ない。妊娠中にごく普通のX線検査を受ける程度なら、100mGyにはなりそうもない。
 逆に、これを超えそうな検査は何か。長時間の透視が必要な場合や、ある種のCT検査の場合である。

情報伝達の遅れ
 そして最後の論点は、情報伝達の遅れである。上述した「普通のX線検査で奇形児が生まれることはない」ことは、現在ではもう議論の余地がない定説である。それどころか、国際放射線防護委員会が90年勧告を出した時点で、世界の定説になったといってよい。
 それから現在まで、10年以上も経っている。この件に関する情報伝播はいかにも遅い。何故遅れたか。
 真っ先に考えられるのは、こうした時によくいわれる、専門家による情報隠しである。しかし、今度のことは、そうではない。医療被曝に関して活発な発言をしている何人かの人たちは平易に書いた書籍をいくつか出しているし、この問題を扱った一般向けの講演会なども行われている。それにもかかわらず、この問題は一般の関心を呼ばなかった。
 この放射線を巡る一種の情報隠し・情報塞栓は、いわれのない死に追いやられた多数の胎児、苦悩した多数の女性を思うと何ともやりきれないが、その犯人はどうやら、日本全体を覆う「空気」のようである。
 今回のフォーラムが、この空気を入れ換える換気扇の役割を果たすことを期待している。

(注1)国連科学委員会UNSCEARというのは、国連の機関の1つで、「放射線の線源と影響」に関し、それぞれの時点での最新の知識・データを全世界規模で集積・整理した膨大な報告書を出している。これをみると世界中の科学者がどう考えているかがよく分かる。
(注2)国際放射線防護委員会ICRPというのは放射線医学に携わる医師、科学者の学術団体で、科学者達の最大公約数的な意見を現実社会に適用するにはどうしたらよいかを、科学者の立場から世界に向けて勧告したものである。その勧告は、研究の進歩に応じて10数年ごとに大きな改訂が、数年毎に小さな改訂が行われている。
UNSCEARとICRPは、58年以来、UNSCEARが科学的なデータを集積・整理し、ICRPはそれを利用して勧告を作るという関係にある。